死後20年、逸見政孝さんが「家族に最期に伝えたかったこと」の鑑定の様子です。
前編です。

【逸見政孝さん】
1968年、フジテレビに入社。フジテレビの看板アナウンサーとして活躍。
20年の局アナ生活を経てフリーに転身。
たちまち民法全局で司会を抱える日本一忙しいアナウンサーに。
しかし、一歩家に帰れば厳しい父だったという。
1993年1月、毎年の健康診断で初期の胃癌だと突然のがん宣告。
しかし担当医は「初期の癌だから、手術をすれば完治します。」と言っていた。
仕事への影響を考え、「十二指腸潰瘍」とうその病名を世間に公表。
すぐさま手術。
しかし胃は3/4切除。
思ったより進んでいて「初期のがんではない」と妻の晴恵さんに伝えられます。
がん細胞は取りきったと信じ、手術から1ヶ月後には仕事へ復帰。
しかしその年の8月、へそ付近のしこりを取る2度目の手術。
しかし、それはただのしこりではなくがんの転移。
9月にがんの専門医がいる病院(東京女子医科大学病院)へ妻の強い勧めで転院。
そこで、「何故ここまで放っておいたのですか!?」と言われ、「あなたの腹部のしこりはガンです」と告げられ、逸見は初めて重大さの気付く。
そんな重大な告知を受けながらも逸見は仕事に出かけていた。
その時の収録では、普段と同じように笑った。
逸見は死に直面し、がん告白記者会見をする決意をする。
旧知の福留功男が記者会見直前のエピソードを語ります。
福留さんによると記者会見の直前、逸見さんから電話がかかってきたとのこと。
逸見「お願いがあります。「波瀾万丈」という僕が持っていry番組を、福留さんやっていただけますか?」
福留「それってどういうこと?」
逸見「実はガンなんです」
福留「帰ってくると約束するなら受ける」
逸見さんは仕事の引継ぎを自ら行っていたそうです。
1993年9月6日、記者会見。
「私が今侵されている病気の名前はガンです。このまま放置すれば年単位ではなくて月単位でがん細胞は蝕んでいくであろう、と。
私はこの言葉をこのまま放置すれば1年も持たないというふうに受け止めました。
私は1年後に亡くなるのは本意ではありません。
僕は人間ができていないですから恐ろしいです。
3か月休養して戦ってみようと決めました。こうやって皆さんに公表したことによってこれからはガンと戦うんだということを言い聞かせる意味でも公表いたしました。
もう1回いい形で『生還しました。』と言えればいいなと思っています。」
記者会見から10日後、3回目の手術。
胃の全部と周囲臓器を摘出する13時間にも及ぶ手術は無事成功。
家族のもとに帰ってきた。
そのおよそ1か月後。
留学先のアメリカから息子の太郎が初めて帰国する日。
逸見は太郎が帰国する日に向けて懸命にリハビリ。
「息子に心配をかけたくない。元気な姿を見せたい。」
その一心で、歩いて見せたのでした。
1993年10月17日は逸見夫婦の結婚記念日。
娘の愛は自動車教習所の卒業証書を見せ「パパが退院したドライブに連れて行ってあげる」と約束。
そして外泊の許可が出た。
久しぶりの我が家に思いをはせます。
しかし、一時帰宅当日、肝機能の数値が異常を示し、外泊は中止。
この日を境に容体は悪化していく。
体力も日に日に衰えていった。
最後の望みをかけ、抗がん剤治療が始まった。
医者「つらいでしょうが、がんばってください。」
逸見「あと1年だけ生かしてもらえませんか。お願いです。」
家族のためにせめてあと1年生きたい。
その思いとは裏腹に体は蝕まれていった。
逸見「愛。黒沢監督の生きるという映画見たことあるか?」
愛「ううん。知らない。」
逸見「ガンと余命宣告された役人の主人公が、人の役に立つことを死が訪れる前にやりたい、と決心するんだ。」
余命いくばくもない主人公をいつしか自分と重ね合わせていた。
逸見「まさか自分がこうなるとは思いもしなかった。これがすべて夢だったらなあ。」
鎮静剤を打ちはじめた逸見は少しずつ意識が混濁し始めた。
12月22日、意識がほとんどなくなった。
そんな中、最後の力を振り絞って逸見は一言つぶやいた。
「太郎。すまんな。頼むな。」
父の最期の言葉だった。
そして、クリスマスイブ、家族が病室に呼ばれた。
意識不明の危篤状態の父がいた。
愛「パパ。お兄ちゃんが21歳になったよ。」
21年前のこの日、逸見が初めて父になった記念すべき日。
その翌日、生還を約束したあの会見からわずか110日。
48歳で逸見は帰らぬ人となった。
誰より愛した子どもたちの心には強い父が今も生き続けている。
後編に続きます。